松戸の学童保育のあゆみ
―学童保育の誕生・松戸市学童保育連絡協議会のあゆみ―

1.松戸市に学童保育が誕生
1960年代の松戸市は人口8万人余りの畑作中心の純農村地帯でしたが、高度成長期以降は東京のベットタウンとして大規模団地が次々造られ急激に人口が増加しましたが、明らかに保育所も病院も不足していました。
全国的に保護者を中心とした「ポストの数ほどの保育所を」という運動が広がる中、松戸市でも保育所づくりを行政に働きかける運動が行われました。
その運動の力が「保育所の次は学童保育所づくり」へと引き継がれ、1966年に都電を改造した「みどり原学童クラブ」が常盤平公園の中に誕生しました。その後、市内の各地域で「つくり運動」が広がり、次々と学童保育所がつくられました。

2.松戸市学童保育連絡協議会(市連協)の誕生
つくり運動をしていく中で、保護者会が個々に行政に働きかけるだけでは要求実現が困難なことから、保護者会間で連絡を取り合い、行政に一致して働きかけることにしました。この運動を通して1973年に「松戸市学童保育連絡協議会(以下、市連協)」が結成されました。
当時は行政側は教育委員会が担当しており小学校の敷地内・敷地外で教育委員会の担当課が分かれていましたが、市連協が結成された同年10月に現在の子育て支援課の前身である「こども課」が設置されました。
それまでは学童保育に関する要望は市長や厚生部長に対して行っていましたが、市連協との窓口がこども課に一本化されました。その後は要望について、市連協とこども課と年2回交渉が行われるようになり、毎回全学童保育所の保護者・指導員・議員合わせて100名を超える規模で行われるようになりました。
また、1983年には指導員の組織である「松戸市学童保育指導員会(以下、指導員会)」が市連協に加盟したことで保護者と指導員の団結が強まり、その後の学童保育運動の発展に大きな力となりました。
 

3.松戸市の施策の前進
松戸市には1974年の「松戸市留守家庭児童会運営要綱(委託事業)」、1981年の「運営助成要綱(補助事業)」による2つの形態がありましたが、中心は補助事業でした。また、委託事業・補助事業にかかわらず運営は「運営委員会(児童民生委員・町会長・学校関係者・保護者等で構成されていましたが、実質は保護者と指導員が中心でした)」が責任を持つものでした。

当時、学童保育所をつくるためには運営委員会の責任で次の4つの条件を満たすことが必要でした。
① 運営委員会が設置され、会則を有すること
② 複数の小学校の児童が利用できること
③ 1年生から3年生までで利用を希望する児童が20名以上いること
④ 施設を作るための用地を確保すること
この4つの条件の中では新規の用地確保が最も難しく、また、その後の地価の高騰や地主さんの世代交代などで借地契約の継続が困難をきわめました。
その状況の中、1986年からこども課が土地契約に関与をしはじめ、学校の余剰教室の利用を進めるなど、施設の確保に積極的に関わるようになりました。
また、こども課と市連協との交渉の中で、玄関・台所・トイレ・げた箱・ロッカー・畳のスペースなど、子どもたちが生活する場に必要な設備を、松戸市も認めるようになりました。
指導員については、助成要綱では「ボランティアとして熱意を有する者」と規定されていましたが、1987年の交渉で「指導員の専門性」を認める発言が見られるようになりました。

4.市連協による共済会の設立とプール制の発足
学童保育所の運営責任は個々の運営委員会が担ってきましたが、一定額の補助金と保育料収入による運営のため、児童数が多い・少ない、保育料が高い・低いで財政力に差が生じていました。
指導員はこの運営の不安定さや、経済的な理由から短期間で辞めざるを得ない状況が続いていました。子どもたちの生活を守り、保護者が労働できることを保障している指導員が、退職せずに働き続けられる環境整備が求められていました。
1980年代に入ると、市連協の中で学童保育所間にある保育料や指導員の処遇の格差の問題が議論されるようになりました。
議論を通して1984年に「松戸市学童保育共済会」を設立し、①指導員の処遇改善、②運営困難な学童保育所の支援、③会員相互の親睦と交流を目的とすることで合意しました。
運営資金は、会費と年1回開催する文化行事(観劇の会)」の収益を充て、給付金や無利子貸し付けなどの互助事業を行い、指導員が働き続けるための環境整備に一定の前進がありました。

この共済会設立の話し合いの中で「松戸市内で同じ仕事をしているのに、指導員の賃金・労働条件に格差があるのはおかしい」という意見が出され、処遇の格差是正に取り組むことになりました。
1986年に労働時間と基本給、指導員が果たす諸任務を含めた「勤務規程」を、各運営委員会に提案しました。しかし、財政力や処遇改善の考え方について各学童保育所で違いがあったことから、さらに格差が広がるという、当初の目的と矛盾する現象が生じてしまいました。特に財政力の違いが大きな壁となっていました。
そのため市連協は、財政力の弱い運営委員会の財政を保障するために、個々の運営委員会から一定割合で拠出金を集め(プール)、集めた資金からそれぞれの学童保育所の指導員の賃金や社会保険料、土地代にかかる費用を分配することで格差是正を図るという「プール制」を提案し、1991年から賛同した運営委員会から順次実施しました。
このプール制は市連協内部の制度でしたが、指導員の賃金水準をある程度確立したことで、その後の行政の予算措置に一定の影響を及ぼすものになりました。

5.保育内容の確立、保護者と指導員との共同の子育て、地域に根差した学童保育
1970年代以降、学童保育所が次々と誕生した時期は高度経済成長期と重なり、核家族化の進行、進学競争、テレビやゲーム機の普及など、子どもたちの生活環境が劇的に変化し、あそぶ時間がない・あそぶ空間がない・あそぶ仲間がいないという「三間がない」と言われた時代でした。同時に地域のつながりが弱くなり、地域の教育力の低下も懸念されていました。
学童保育は保護者の「健やかに育ってほしい」という願いの下、保護者・指導員・地域の方と共に子どもたちを育てるという「共同の子育て」の理念を育みました。
その理念の下、保育の中身が白紙だった時代から、市連協・指導員会・保護者会は「子どもたちにとって良い保育とは」について話し合いを重ね、自然を体験し多くの大人と接する機会をつくるキャンプ、地域の方に学童保育を知っていただく学童まつり、市連協の三大行事であるドッジボール大会・子どもまつり・文化行事(観劇)など生み出し、取り組んできました。
「子どもたちを真ん中にする」「地域に根差す」を両輪として、学童保育の制度を発展させ、保育内容を確立せてきたのです。